2022年7月21日木曜日

悲しみが思いやりに〜「土用の丑の日」の風景


     39年前、 兄が他界した日は、とても暑い日だった。兄は33歳だった。その日は、「土用の丑の日」で、お寺で「ほうろく灸、虫封じ」の行事が執り行われた。行事が済んで、私は名切のグランドで仏教会のソフトボール練習に駆り出されていた。練習していると、お寺の人が「お上人さーん、お上人さーん!」と駆け寄ってくる。「お兄さんが、お兄さんが、亡くなったそうです。今、お寺に連絡がありました」「・・・・」。事故、詳しいことは分からない。車に乗せてもらいお寺に帰り、準備して長崎市の実家まで車を飛ばした。出かけに先輩夫婦が、お寺の玄関で心配そうに見送ってくれたのを覚えている。なんだか、心強かった。
    実家に着くと、兄の遺体は棺に入れてあった。信じられなかった。兄の遺体を無我夢中で揺さぶり「にいちゃーん!にいちゃーん!」と叫んだ。目を覚ますはずもない。悲しみが爆発したように全身に込み上げてきた。号泣した。
 遺体は、棺にきれいに収まっていなかった。硬直していたからかもしれない。「そういう時は、お題目を唱えて遺体をさすってやるといいよ。柔らかくなり、きれいに収まる」と聴いたことがある。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、、」と泣き唱えながら兄の遺体をさすってやった。不思議に柔らかくなり棺に収まった。お題目、ありがたし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。その日のことは、映画を見ているよに鮮明に目に浮かぶ。脳に深く刻まれているようだ。
    「ひとの寿命は無常なり」、兄はまだ満33歳だった。お盆、彼岸、命日、折々に卒塔婆を立てて供養した。毎朝、仏壇の位牌の前で亡き両親とともに回向している。しかし、親は順番と思えるが、兄のことを思い出すと未だに悲しくなってくる。兄弟の死は、辛いなあ。「月日が経てば、次第と薄れるさ」、そんなもんでもない。しかし、兄の死の悲しみは、他人への思いやりに通じていくと思う。
 明後日は、土用の丑の日。今年も「虫封じ」の行事が執り行われる。また一年が経つ。兄の死の悲しみが他人への優しさに変じ、歳をとるごとに年輪の如く、その優しさが増して太くなればと思う。こころは、今日も大吉!
    

2 件のコメント:

  1.  人間は2度死ぬといいます。1度は心臓が止まったとき。2度目はその人のことを完全に忘れ去ってしまったとき。
     お兄さんはお上人さまの心の中で今でも生きておられます。きっと喜んでおられるでしょう。

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    1.  有難うございます。遺影が笑っているんですよねえ、、、、なんとも。

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